日本文学研究会は、日本文学・日本語学を研究領域とした教員で構成しています。年度末に研究発表をおこなっており、このページではその要旨を紹介します。

   





日本文学研究会(令和三年二月十七日)



日本語のゆれについて  嶺田 明美

あるものごと Xについて,そのものの性質の方向性が垂直方向へ大きいとき「Xが高い」というが、「Xが{強い/大きい/多い}」との間でゆれている語が増えている(嶺田2015)。これを踏まえ、嶺田(2017)で述べた「X力」の程度を表す場合の形容詞のゆれについて確認するとともに、最近、よく使われている「感染力」「免疫力」のゆれを考察した。「感染力」も「高」が使われ始めていることがわかった。



戦時下の詩誌『新詩論』  猪熊 雄治

戦時下の詩誌『新詩論』(昭和十七~十八)について、その創刊から終刊までを概観し、詩誌としての位置付けや評価を試みた。編集を担当した村野四郎、北園克衛の姿勢が反映され、戦時下であっても、誌面からは芸術性を追求しようとする方向がうかがえるとし、モダニズム詩人達が模索する姿を、北園の提唱した郷土詩の実践等から確認した。さらに終刊後に刊行された『麦通信』(昭和十九~二十)にも言及することで、『新詩論』から『麦通信』に到る詩誌の系譜を辿り、新進にとって貴重な発表の場ともなっていたのではと推測した。





日本文学研究会(令和二年二月十九日)



『三つのペンネームー伊東英子と「赤い鳥」―』  福田 委千代

 伊東英子は、旧姓伊澤英子、「少女画報」では伊澤みゆきの筆名で活躍し、「青鞜」では濱野雪、のちに島崎藤村主宰「処女地」では伊東英子として作品を発表した。長らくどのような人物なのか知らされていなかったが、近年の研究成果で、教育者伊沢修二および政治家伊沢多喜男の姪であり、宇野浩二の恋人・伊沢きみ子の実姉、翻訳家伊東六郎との結婚歴などが明らかとなった。晩年は中村汀女主宰「風花」の同人として、再婚後の本名・須田英子名義で多数の句を詠んでいることが分かっている。
 将来を嘱目されながらも、小説家として立つことのできなかった英子であるが、そこには筆名の問題がかかわっている。研究会では、筆名毎の作風を解説した上で、伊東英子名義で賛助者となった雑誌「赤い鳥」に発表された五篇の童話について、その特色と「赤い鳥」における意義とを考察した。



コンピュータ時代の言語研究と学校教育  須永 哲矢

 コーパスや統計を利用した言語研究の事例と、研究結果の教育への還元の仕方について紹介した。現代では歴史的資料のデータ化も進んでおり、古典語の助動詞の使用実態に関しても、実例をもとに一般化することが可能になりつつある。そこで『源氏物語』での助動詞の使用状況のデータを事例として、宇治十帖における特徴抽出実験の結果を報告するとともに、高校での古典文法指導に客観的尺度を導入することにより拓ける可能性を示した。また、大学での日本語学専攻における技術面での可能性として、翻訳ソフトの利用を視野に入れた専門教育の可能性を紹介した。村上春樹のテキストと夏目漱石のテキストを自動翻訳処理を行った結果から、あらためて村上春樹の文体が翻訳的であることを立証しつつ、翻訳を意識した文とそうでない文の書き方の差を示した。そしてそういった差を自覚し、意識的に翻訳ソフトになじむ文書を書くということ自体が、ひとつのスキルとして成立しうる可能性を指摘した。





日本文学研究会(平成三十一年二月二十日)



『讃岐典侍日記』の和歌をめぐって  丹下 暖子

 『讃岐典侍日記』には二十三首の和歌が見られるが、そのすべてが堀河天皇の「追慕の記」である下巻に配されている。本発表では、二十三首の和歌のうち、古歌の引用に注目し、役割や位置づけを論じた。また、讃岐典侍の詠歌の特徴にも言及した。
 『讃岐典侍日記』には、勅撰集や『栄花物語』に入集する古歌を一首そのまま引用するという場面が見られる。自身の心境に一致する歌を引用し、「げに」と思いを深める形で展開する。これらを検討すると、諒闇の間の記事には天皇追慕の哀傷歌を引用する一方、諒闇が明けた後の記事には天皇以外の人物に対する哀傷歌を引用していることに気づく。堀河天皇にまつわる回想記事も、諒闇の前後で公的なものから私的なものへと変容していることから、讃岐典侍は諒闇の前後で記述姿勢を変化させていたと考えられる。そして、特に諒闇の期間においては天皇追慕の先例となる哀傷歌を引用し、ともに仕えた人々と共有される堀河天皇の姿を回想する下巻には、典侍としての視点で天皇の御代を振り返り、追慕しようとする一面もあったと捉えられる。



「ドヤ街」から読む「あしたのジョー」-梶原一騎・ちばてつや・三島由紀夫  山田 夏樹

 本発表では、高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」(「週刊少年マガジン」一九六八・一・一~七三・五・一三)に描かれる「ドヤ街」を焦点化する。少年院出身で「ドヤ街」に住むジョーの生き方には、これまで学生運動など同時代の反体制の姿勢が重ねられ読解されてきたが、実際には本作は、限定された時代には留まらない、現在にも射程の及ぶ視点を内包している。反体制のみへの注目は、逆説的に、戦後日本を一枚岩のもののように単純化することに他ならない。しかし「ドヤ街」に住むジョーは、反体制のみならず、引き揚げ、戦災孤児など様々な性質を体現する存在である。そこで戦後七〇年余を経ても収束することのない、対外戦争に密接に関わる過去と対峙していくことによって、ジョーは自身のみならず周囲の人びとの囚われたあり方をも解き放っていく。そうした点に注目することで、同時代的な反体制の枠組みにノスタルジックに留まること、現在と無縁の事象として忘却することとは異なり、本作が内包する批評性を改めて顕在化させていく。





日本文学研究会(平成三十年二月二十一日)



宗祇と名所  岸田 依子

 室町後期に活躍した連歌師宗祇は、箱根湯本で客死するまで、終生諸方への旅に赴いたが、その旅の人生とも関連して注目されるのが宗祇の「名所」に対する深い関心である。
 『白河紀行』『筑紫道記』の紀行文における名所はもとより、寛正五年正月一日詠『完祇独吟百韻』(発句のみ専順作)、文正二年(文明二年とする諸本もあり)正月一日詠の『完祇独吟百韻』(自注あり)名所百韻、名所を列挙した『完祇名所和歌』、あるいは連歌論書『浅芧』後半部における、中世の他の連歌論書や連歌学書には類例を見ない、一八七の名所と証歌・寄合語を一括して掲載した名所に関する大部の記載などがあり、『実隆公記』にも完祇の名所や歌枕に関する談話の記事が折々見える。本発表では、主として独吟の「名所百韻」二編の名所と『浅芧』収載の名所を対象に、鎌倉時代以降同時代に至る名所歌集の名所との一致度を調査し、その特性の一端について考察し、完祇の句集や百韻・千句の付句や付合における完祇の名所句の詠法や付合の技法等について考察するうえでの一つの布石とした。



太宰治の旅  元吉 進

 近現代の文学者で、太宰治ほど旅行をしなかった人も珍しいとされる。旅の時期と行先、同行者を一覧表にまとめると、太宰の旅の特徴がいくつか指摘できる。まず第一に、単独行が少ないことで、友人知人、家族との旅が多い。これは、大名旅行的に若様気取りで、人任せであった実家津島家の旅行形態が影響しているだろう。また、曾遊の地を繰り返し訪れていることも特徴である。さらに、旅の西限は三保の松原で、京都、関西に足を運んでいない。これには、『津軽』に見られる都・中央に対する反骨意識、津軽人としてのプライドが根底にあろう。最後に、川端康成が『伊豆の踊子』の舞台とした湯ケ野温泉福田家旅館は太宰も宿泊したが、『東京八景』等の作品には全く川端関係の言及が無い。太宰の芥川賞落選以降、川端は太宰作品を評価しているので、太宰が言及しないのは、川端個人への屈折した意識というより、妻美知子が書くような「作家は自分一人」という自尊心のなせる結果ではないだろうか。





日本文学研究会(平成二十九年二月八日)



日本近代文学における芭蕉の受容―太宰治の〈軽み〉―  槍田 良枝

 日本近代文学における芭蕉の受容は様々な分野に見られるが、今回は太宰治の〈軽み〉の理念形成における芭蕉の位相を考察した。太宰は高校時代から俳句に親しみ、大学時代に熱中した連句は、小説方法を模索していた太宰に多大な影響を与えた。初期の短編「葉」や中期の「富嶽百景」における連句の歌仙方式や付合いという方法の受容からはじまり、俳句の「単一表現」に自らの求める芸術観をみいだそうとし、俳句における名詞の効果への称讃や、芭蕉への言及が多くなる。右大臣実朝像の造型に託された〈軽み〉の理念は、後期の「パンドラの匣」では芭蕉のかるみと同一であることが明示され、そこに新しい芸術の進む道を重ねている。また芭蕉のかるみ論は「斜陽」にも援用され、「人間失格」にも俳句が挿入されていることなど、太宰文学の中核に芭蕉が深く関わっている。



ある日の彰子の怒り  久下 裕利

 『四条宮下野集』によると天喜四(一〇五六)年四月三十日皇后宮寛子春秋歌合において選歌された宮の女房である下野の歌三首のうち二首が、女院彰子の圧力で女院方の女房である伊勢大輔の歌に差し替えられるという事件が起きた。下野にとって晴儀歌合に三首も選歌されたのであるから名誉なことになるはずだったのだが、一転して悲憤慷慨な件となってしまい、歌合においても下野の右方は敗けてしまった。
 これが事実だとすれば、温情な彰子の人生史にとっても唯一の汚点となるような権力の行使であったことになるが、頼通の実娘寛子への後見が、後冷泉天皇を蔑ろにするような局面として捉えれば、既に女院である彰子の立ち位置が、摂関家の藤原氏というよりも皇族圏の人として皇権を支える立場にあって、これも単なる嫌がらせの域にとどまる事件ではなく、弟頼通の後宮政策への不信感の現れとして極めて政治的な事件であることを述べた。





日本文学研究会(平成二十八年二月十七日)



世阿弥の定家受容  齋藤 彰

 世阿弥の定家受容について、世阿弥の和歌観を確認し、定家詠と定家偽書の受容の観点から分析した。先ず、立合能に勝つ為の自作能の必要性と言葉の幽玄の為の世阿弥の和歌観を認めた。次に、最上位の妙花風即ち離見の見の比喩として、閑寂であるが優美さがある「雪の夕暮れ」を受容し、晩年の世阿弥能のクセ(一曲の中心)や上歌(叙情や心情)に定家詠を受容していることを認めた。また、世阿弥晩年の能における後ジテの舞の〈白光清浄な柔和な余情ある幽玄美〉を形容する〈雪を廻らす〉の論理として世阿弥偽書(真作とされていた)の『三五記』の受容を認めた。また、離見の見に現れる幽玄體の皮を理想として、〈皮肉骨〉の論理の世阿弥偽書の『愚秘抄』の受容を認めた。



初期村上春樹と物語  太田 鈴子

 村上春樹は長編小説三作目である「羊をめぐる冒険」執筆に際し、小説の方法を、自己告白ではなく物語を構築することとし、以降、その方法で短編、長編とも創作をしてきた。物語創作を選択したことは、物語を媒介として世界に読者を広げていくことにもなった。近代小説に物語の方法を導入することについては、一九七〇年代より積極的に行う作家が登場しており、賛否論じられている。これらの物語批判論、賛成論を紹介し、村上春樹の物語の特色を、日本的なるものと合わせて明らかにしようとした。





日本文学研究会(平成二十七年二月十八日)



『紫式部日記』をどう読むか―もう一つの読み方  久下 裕利

 萩谷朴『紫式部日記全注釈』(角川書店)に当日記が子女のための庭訓書だという説があり、儀礼に於ける女房たちの装束描写や寛弘六年(一〇〇九)の記事に換えての消息文での女房批判は、そうした意図の蓋然性を高めるが、もう一つ道綱家をどう道長家に摂り込むかという役割を負っているようで道綱女宰相の君豊子の描き方に特異性があるからだ。
 式部と親密な同僚女房として三人の中で、大納言の君と小少将は宮仕えにおける憂愁を共有してその生き難さの暗い面が強調されるのに対し、冒頭近くに据えられる宰相の君との交友関係はなぜか明るく華やいでいる。詮子側に組みしないように宰相の君を倫子側に繋ぎとめておくような作意とみられよう。



口語歌人青山霞村の伝記的事実  中西 裕

 口語短歌を創始し、初の口語短歌集『池塘集』を刊行した歌人青山霞村(あおやまかそん 1874-1940)については、伝記的事実が明確になっているとは言いがたい。これまでに見落とされてきた『米国苦学実記』(形影生著)が霞村の著書であることを確定し、そこから伝記的事項を拾い出すとともに、同志社大学図書館等に所蔵されながら、やはり利用されずにきた霞村主宰の短歌雑誌『からすき』を通覧して事実確認作業を行った。そこから判明した、アメリカ遊学や『京都新聞』経営の事情、家族構成などについての研究成果を発表した。



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